四足天神(江戸時代の静岡天満宮)

①「江戸前期(慶長)の静岡天満宮」

【慶長12年(1607) 家康在城当時駿府絵図】
【慶長12年(1607) 家康在城当時駿府絵図】

 上の図は、昭和63年に静岡天満宮が復刻した絵図の一部である(原図は静岡県立中央図書館に所蔵)。 慶長12年(1607年)は、家康が征夷大将軍の位を秀忠に譲った2年後にあたり、駿府城の大改修を始めた年でもある。四足御門は諸大名が家康謁見のとき城内に入る門であり、この周辺は当時の東海道のメインストリートである。四足御門の町名(四ツ足町)も記されている。

 図の中で赤色の部分は社・寺を示している。
 図の赤い印は、現在の静岡天満宮の所在地とほぼ同じ場所であり、そこに記された文字は「四足天神」と判読できる。既にこの時代には、静岡天満宮は、「四足天神」とも称され、当社が学問・厄除の神として諸大名や庶民に崇敬されていたのである。また同時に駿府城の南西裏鬼門を守る神社としての役割も示している。

②「江戸中期(宝永)の静岡天満宮」

[宝永5年(1707年)*駿府鳥瞰図の駿府城の南部]     

上の絵図は宝永5年頃に土佐光成が書いた「*駿府鳥瞰図」中の駿府城南側城下町の一部を掲載したものである。絵図の下部のやじるし(スマートフォンを横向きにして見てください)上の外堀の上の御門が四足御門であり、右側の御門が大手御門である。 

四足御門の真下に鳥居と社(やしろ)があり、これが現在の静岡天満宮とほとんど同じ位置にあたる。当時は四足天神(慶長12年の駿府絵図)と呼ばれていた。この宝永の*駿府鳥瞰図から見ると、この当時の静岡天満宮(四足天神)はかなり広い境内(現在の10倍以上)を有し御鎮座していた事がわかる。

*引用文献:『駿府鳥瞰図』駿府博物館所蔵 土佐光成筆 宝永5年(1707)頃の作 静岡市指定文化財

 この駿府鳥瞰図は平成28年(2016)に、この絵図を所蔵する駿府博物館の掲載認証を得て、静岡天満宮のカレンダーを作成し、崇敬者の方々に配布した。ここでは静岡天満宮の御鎮座の歴史を示す学術的資料として、認証済みカレンダーより駿府城四足御門を中心とした城下町の部分みを抜粋し、静岡天満宮が江戸中期「宝永」の時代に、今現在のこの場所に御鎮座されていた事を示した歴史的に貴重な学術絵画文献として引用した。