天神信仰の原点

 静岡天満宮は昔、川中天神と呼ばれていた。まだ安倍川の経路が定まらなかった頃、流れの中にひときわ目立つ石があった。それが天の神の降臨する所として祀られるあいだに、いつしか川中天神と呼ばれるようになった。静岡天満宮が鎮座する呉服町の地下には、大きな天神様の形をした石が埋まっているという伝説もある。これが天満宮の境内に大切に伝えられてきたことは、神社の出発点が石と深い関係を持っていたことを物語っている。
 古代の人は、人間の生活を守り、豊かな稔りをもたらすものはすべて神の力であると信じていた。目に見えない神は巨石・巨木・山・岬などに宿ると考え、そこで祭りを行った。こうした神が天の神すなわち天神様だった。天神信仰は、本来漠然とした自然崇拝そのものに発している。
 ところが、平安時代、学者としても名高かった菅原道真公が藤原氏の陰謀によって九州にながされ、そこで寂しく亡くなるという事件が起こった。まもなく京都の御所に落雷があると、これこそ怨みをのんで死んだ菅公の霊の仕業に違いないと当時の人々は考え、雷すなわち 天の神=天神として菅公を祀り、その霊を慰めようとした。やがて全国にある無数の天神社もこの影響を受け、菅公を御祭神として祀り始めた。静岡天満宮もそうして平安時代末には、今日のように菅原道真公を御祭神として崇めたと伝えられる。
 日本の神社信仰の流れは、素朴な自然崇拝が具体的な祭神と結びつき、やがて立派な社殿へと発展していく。静岡天満宮の出発点とされる石伝説は、日本の天神信仰の原点を示すものといってよいであろう。

 静岡の老舗「竹茗堂」の初代竹茗氏(西村忠実)は、歌人でもあり、また国学も良くし、本居宣長(1730~1801)と親交があり、木枯らしの森にともに遊んだことが碑に刻まれている、元明元年(1781)に茶舗を始めたころよりすでにあった掛け軸が、七代目(故西村泰輔氏)の夫人の扶希子氏により静岡天満宮に奉納された。この掛軸には安倍川と大岩を背にした菅公の像の絵である。これは静岡天満宮の原点を物語っている。