菅原道真公の心(社頭講話より)
今日は静岡天満宮の御祭神で在られます菅原道真公の「心」について少しお話したく思います。
今年は道真公生誕1177年です。道真公は承和12年(西暦845年)6月25日にお生まれになりました。幼い時から学才があり5歳で和歌を詠み、11歳で漢詩の法則を厳格に踏んだ五言絶句を詠んだそうで、18歳で文章生となり、今でいうと東大・京大の大学院生となるという秀才のようです。
その後、文章博士となり、秀でた学識が認められ宇多天皇により右大臣に昇格しました。道真公はどちらかというと人脈・策略政治家ではなく真面目一方の学者政治家であったようです。
その一面を覗わせる和歌があります。
「心だに まことの道に かなひなば いのらずとても 神やまもらん」
祈らなくても良いと言っているのではなく、人には普段から誠・真(まこと)を大切にしなければならないと、道真公の本心をあらわしていると思います。
しかしながら、この時代は天皇家の外戚や摂関家になろうとの政治的策略の時代でした、例えば「薬子の変」では藤原式家、「承和の変」に橘氏・伴氏、「応天門の変」に伴氏・紀氏、さらに後の「安和の変」に源氏の排除など、様々な政治的策略陰謀時代であった中で、道真公は誠(まこと)の道で政治に挑んでいたと思います。また、宇多天皇も道真公のその学識と誠(真)に信頼をおき、当時の藤原氏の台頭をおさえようと道真公を右大臣に任命したのですが、藤原氏の策略政治の前には勝てず、無実の罪をきせられるという陰謀のもとに昌泰4年(西暦901年)1月25日に大宰府に流され、道真公は政界から排除されてしまいました(昌泰の変)。
その時に詠んだ和歌が・・・
「東風(こち)吹かば 匂ひをこせよ 梅の花 主(あるじ)なしとて 春な忘れそ」
この歌は一見梅の花をいつくしむやさしい歌のようですが、実はこの歌の中には、自分が「まことの生き方」をしてきたのに下野させられる事について、何故…?という悲しさ・悔しさ・恨みが込められていると私は思います。そして大宰府への左遷の途上、備前国児島郡八浜で詠まれた・・・
「海ならず たたへる水の 底までに 清き心は 月ぞてらさむ」
まさにこの歌は「まことの道」を大切にして生きてきた道真公ゆえに詠むことの出来た和歌であると私は思います。その2年後の延喜3年(西暦903年)、道真公は59歳で亡くなられます。
道真公は、お名前そのものが(道真⇒みちのまこと)とも読め、そして生涯、「まことの道」で生きてきたからこそ、無実の罪をきせられた陰謀を許すことはできず、御霊(怨霊)信仰の祟神(たたりがみ)
として雷神(天神てんじん)となり宮中に落雷(北野天神縁起絵巻)したと私は思っています。
その後、道真公の無実がわかり「祟り神」は変身し「厄除けの神」となりました。
さらに偉業の学才学識から「学問の神」となり日本の人々に崇敬されて現在に至っています。
このような道真公の「まことの道」は現代社会において忘れられがちであります。
人が人として生きていく上に於いて仕事や私生活、何をするにつけてもわたくし達の人生に大切な「まことの心(道)」は「てんじんさまの道」ではないでしょうか。