菅原道真公の大宰府への左遷と神格化

1.左遷の旅の中での道真公の心中

①「東風(こち)吹かばにほひをこせよ梅の花 あるじなしとて春な忘れそ」 
(解釈) 東の風が吹いたならば、梅の匂いを私のもとまで届けておくれ。主人がいないからといって、春を忘れたらいけないよ。 

②「流れゆくわれは水屑となり果てぬ 君しがらみとなりてとどめよ」 
(解釈) 地方に流されていく私は、水の藻屑のような身になってしまいました。我が君よ、どうかしがらみとなって私をとどめてください。 

③「君が住む宿の梢をゆくゆくと隠るるまでも返り見しはや」 
(解釈) あなたが住んでいる家の屋根や木立の梢を、道すがら、(家の屋根や木立が)隠れて見えなくなるまで振り返って見たことですよ。 

④ 駅長莫驚時変改 
 一栄一落是春秋 
 (解釈) 駅長よ、時の変化を驚くことはありません。

春には草木が盛り、秋にはこれらが散っていくというのが世の流れというものです。 

 

⑤「海ならず たたへる水の 底までに きよき心は 月ぞてらさむ」『大鏡(左大臣時平)』『新古今和歌集』

(解釈) 海よりもさらに深く水をたたえた水底までも、(水)が清く澄んでいれば(暗い水底をも)照らし出す事ができるように、(私の)清い心(無実)を月(帝)がきっとはらしてくれるだろう。

 

大宰府へ左遷の途上備前国児島郡八浜で、無実の罪であることをせめて月だけは明らかにしてくれるだろうと無実を訴え詠んだ歌、月は帝を示唆していると思われる。帝がきっと道真の無実を明かしてくれると信じて詠まれた歌であろう、その場所には硯井天満宮が創建されています。

                         
                               ※以上の引用文献 「マナペディア」の大鏡

2.大宰府での道真公の心中

①『九月十日』菅家後集 四八二
  去年今夜侍清涼

  秋思詩篇獨断腸

  恩賜御衣今在此

  棒持毎日拜餘香

去にし年の今夜(こよひ)清涼に侍りき

秋の思ひの詩篇獨り腸(はらわた)を断つ

恩賜(おんし)の御衣は今此に在り

捧げ持ちて日毎に餘香(よやう)を拝す

(解釈)

九月十日は昌泰三(900)年九月九日の重陽後翌朝の詩宴をさす。清涼殿に右大臣として醍醐天皇の側近に侍していた道真であったが、左大臣藤原時平をめぐる藤原摂関政治のなかで、次第に浮き上がり孤立化して行く状況を敏感にかぎとり、すさまじくもどかしい一年前の憂憤の気持ちをこの詩に「獨断腸」と詠んだのだと思われる。

ただ大宰府での今は、賜った御衣(前年の九月十日の宮中の宴に「愁思」と題した詩を献じ、醍醐天皇から

褒美に御衣を下賜されたことを思い起こして)を、天顔を拝する思い(無実が晴れて醍醐天皇が都に呼び戻してくれるだろうとの信念の願いと祈りを込めている)で御衣にまつわる余香を毎日がぐことである。   

参考《新編日本古典文学全集》

 
②『問秋月』菅家後集 五一〇
  度春度夏只今秋

  如鏡如環本是鈎

  爲問未曾告終始

  被浮雲掩向西流

春を度り夏を度りて只今の秋

鏡の如く環(たまき)の如くにして本(もと)これ鈎(つりばり)なり

(かるがゆえ)に問ふ曾(か)つて終始を告げざりしことを

浮べる雲に掩(おほ)はれて西に向ひて流る

(解釈)

秋の月よ、そなたは春をわたり、夏を過ぎて、ただいま秋にたどり着いた。

秋の月よ、そなたは鏡のようでもあり、環の輪のようでもあるがもとは釣針のように細い時もあった。

秋の月よ、私はそなたに尋ねたい、今までに一度も進退終始の循環して止まらぬ運行を誤ったことはないはずなのに。

みよ、そなたは今浮雲におおわれて、西空に向かって流されてゆくのは、いったいどうしたのか?

                             参考《新編日本古典文学全集》


③『代月答』菅家後集五一一
  蓂發桂香半且圓

  三千世界一周天

  天廻玄鑑雲将霽

  唯是西行不左遷

蓂發(めいひら)き桂(かつら)(かぐは)しくして半圓(なかばまどか)ならむとす

三千世界(さむぜんせかい)一周(ひとめぐり)する天(そら)

(てん)(げん)(かむ)を廻(めぐ)らして雲(くも)(まさに)(は)れむとす

(ただ)(これ)西に行くなり左遷(させん)ならじ

(解釈)

月に問いかける人よ、私の世界では冥莢(めいきょう)(こよみぐさ)が花開き、桂(月中の桂樹)が香って(月も)ただいま漸(ようや)く半円になった。

月に問いかける人よ、私は三千大千世界(三千世界は仏教でいう須弥山を中心として七山八海をめぐらした一郭を一小世界を千あつめて一小千世界、これを千あつめて一中千世界、これを千あつめて一大千世界、それを三千合わせると三千大千世界)の天をひとめぐりしているのだ。みよ、大空は神(あや)しい鏡をめぐらして、私をおおっていた雲をとりさりはれようとしている。

月に問いかける人よ、私は左遷されているのではない、ただ西へ行くさだめなのだ。(流謫・左遷は自分にいわれのないことを月に託して叫びあげている。)

                           参考《新編日本古典文学全集》

 


 菅家後集四八二の『九月十日』は、道真が太宰府に流されてから半年後の延喜元年(901)の秋に、

後集五一〇の『問秋月』、同じく後集五一一の『代月答』は、流されてから1年半後延喜2年(902)の秋にそれぞれ大宰府で詠んだ漢詩と思われる。
 大宰府に流された当初は、あまりにものみすぼらしさ、空虚さ、不満がつのり、誠実実直な道真はじっと我慢し詩作に耽る日々であった、後集四七八の『不出門』の漢詩にあるように観音寺の鐘の音を聞き「・・・観音寺はただ鐘の声を聞くのみ中(衷)懐はことむなし孤雲にしたがいて去る 外物は相逢いて満月を迎ふる・・・」と家に籠り自分の無実の罪の無念を漢詩に詠み気持を託す事と天を仰ぎ無実を訴える日々であった。そして後集四八二の『九月十日』では、まさに流された太宰府で迎えた重陽の秋の夜に、前年の九月十日の宮中の宴を思いだし褒美として帝から下賜された御衣を天顔を拝する思いで余香を拝し月に祈り帝に無実を訴えている。
 かつてより道真は「心だに まことの道に かなひなば 祈らずとても 神やまもらん」と和歌を詠んでいるように、策略を持たない誠の道で生きる学者政治家であったが、その様な道真であっても、謀略による無実の罪を着せられた現実に直面し、天を仰ぎ地に伏して神仏に祈ったのである。
後集四九四『歳日感懐』に「・・・合掌して観音を念ずるのみ 屠蘇(とそ)、盃を把らず」酒に頼らず、仏に祈るだけだと詠んでいる。
 道真は持病の脚気と皮膚病がますます悪化し、胸の痛みを感じ、体力も衰えていた。
夏の降り続く雨の日「あめのした  かはけるほどの  なければや  きてしぬれぎぬ  ひるよしもなき」(大鏡巻六  時平八九四)と詠んでいるように、折にふれ無実の罪「ぬれぎぬ」を訴えた。
 さらに1年半の年月が流れ秋を迎えた。そして都では本来華やかな仲秋の名月の宴であるはずを想い、ここで再び自分の無実を月に問い『問秋月』、そして自問自答し真の道(心)で月に代わって無実を答えたのが『代月答』であろう。源氏物語では光源氏の須磨への流離下向の中、道真の漢詩を引いて、[月いとあかうさし入りて、・・・・・りかたの月影すごく見ゆるに、『たゞこれ西に行くなり』とひとりごち給ひて]と述べたあと光源氏が詠んだ「いづかたの 雲路にわれも 迷ひなむ 月の見るらむ 事も恥ずかし」は、道真の ”まことの道” に照らし、光源氏が帰京出来るはずだとの気持を託し念じたのであろう。光源氏はこの歌の中で、道真の無実である真の強い信念の気持と自分の無実の信念との一体化を、月(神)を介して帝に託したと思われる。物語ではその後明石入道に出会いそして明石へとの好機に転じていく・・・すばらしい引歌(引用漢詩問秋月』『代月答)である。

 そして道真は年が明け延喜3(903)年に大宰府に淡雪が降った時に詠んだ、後集五一四『謫居春雪』、これが絶筆となった。さすがに淡雪を白梅と詠み、最後の最後まで無実を晴らし、都へ戻りたい信念と祈りが詠まれている。それゆえに道真の魂は怨霊となり「祟り神」と成り得たのであろう。

『謫居春雪』菅家後集 五一四
  盈城溢郭幾梅花

  猶是風光早歳華

  雁足黏將疑繫帛

  烏頭點著思帰家

(あづち)に盈(みち)(くるわ)に溢(あふ)れて幾ばくの梅花(ばいくわ)

なほ、これ風光(ふうくわう)の早(そう)(さい)の華 

(かり)の足に黏(ねやか)り将(い)ては帛(きぬ)(か)けたるかと疑う

(からす)の頭に點(さ)し著(つ)きては家に帰らんことおもふ

(解釈) 

春の淡雪が城(都府大宰府)一面に降り積もって、(京の自宅の梅を想い)

どれほどの梅が咲いたかと思われる。この雪はやはり日の光に輝く早春の花のようだ、

ゆれうごく歳の初めの梅の花のようだ。

雁の足に雪がついて白色の手紙を付けているかと思われる(*①蘇武の故事)

烏の頭に白い雪が点をうったようについて頭が白く見え、

これで家に帰られると思う。(*②燕の太子丹の故事)

 

*①蘇武の故事:19年間、匈奴に捕えられていた蘇武が雁の足に白い帛書をつけ、これを天子が見つけて武を助け出した。『漢書(蘇武伝)』

*②燕丹の故事:秦に捕えられた燕の太子丹が、黒い烏の頭が白くなったら帰すと言われ、白い雪が付いて白く見えたので、無事帰国できた。『史記(燕召公世家)』  

 

                           *引用文献  『新編日本古典文学全集』岩波書店

                                  鈴木嚴夫著 『東風吹かば』文芸社

3.道真公の祟り神そして厄除の神への変遷

 道真公の死後、京では異変が相継ぐ。道真公を放逐した政敵 藤原時平の一派であった藤原定国の急死(延喜6(906)年)、藤原菅根の落雷による死亡(延喜8年)、そして時平の39歳の若さでの急逝(延喜9年)。同時に、日照りによる不作、疫病の流行などの災厄が京の街を襲う。この頃から都では、これらの不幸や災厄が道真公の怨念による祟りであるとの噂が流布し、加持祈祷の中に道真公の怨霊が姿を現したなどの流言が飛ぶことになる。ついで、醍醐天皇の皇太子 保明親王が薨御(こうぎょ)され(延喜23(923)年)、これを承継した慶頼王が亡くなられる(延長3(925)年)。そして延長8(930)年、天皇の御殿である清涼殿において折からの旱魃(かんばつ)の対策を話合っていた際、京の街を激しい雷雨が襲い、清涼殿に落雷、火災を引き起こし、さらに儀式の御殿である紫宸殿にも落雷した。この事故で藤原清貫ら数名が即死、醍醐天皇は3ヶ月後に崩御された。これらによって道真公は雷神として恐れられることになったという。当時、地主神として火雷天神が祀られていた北野の地に道真公が祀られ(天暦元(947)年)、これが現在の北野天満宮となっている。道真公の大宰府の墓所(安楽寺)には社殿が造営されて(延喜19(919)年)、道真公の御霊をお祀りし、これが現在の太宰府天満宮である。道真公の無実がわかり、「祟り神」は変身し、「厄除けの神」となったのである。