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1.天神信仰の原点 静岡天満宮は昔、川中天神と呼ばれていた。まだ安倍川の経路が定まらなかった頃、流れの中にひときわ目立つ石があった。それが天の神の降臨する所として祀られるあいだに、いつしか川中天神と呼ばれるようになった。静岡天満宮が鎮座する呉服町の地下には、大きな天神様の形をした石が埋まっているという伝説もある。これが天満宮の境内に大切に伝えられてきたことは、神社の出発点が石と深い関係を持っていたことを物語っている。
静岡の老舗「竹茗堂」の初代竹茗氏(西村忠実)は、歌人でもあり、また国学も良くし、本居宣長(1730~1801)と親交があり、木枯らしの森にともに遊んだことが碑に刻まれている、元明元年(1781)で茶舗を始めたころよりすでにあった掛け軸が、七代目(故西村泰輔氏)の夫人の扶希子氏により静岡天満宮に奉納された。この掛軸には安倍川と大岩を背にした菅公の像の絵である。これは静岡天満宮の原点を物語っている。 2.特異な静岡天満宮
農耕民族である日本人は、自然の恩恵と脅威とを感じつつ生活を営んできたのでこの自然の力を充分に知って、五穀豊穣と無病息災を祈願して、身近にある山の嶺や麓川の中州や岸辺、森の奥、海の磯辺の傍らに、この自然神を祀った。この自然神は「天神地祇」であり、この「天神」(てんしん 清音)と、無実の罪で九州太宰に流されて謫所で逝った菅原道公の神号が「天満自在天神」の「天神」(てんじん濁音)とが重なって、天神社といわれていた神社の大半が、菅原道真公を祀るようになった。 3.<江戸時代の静岡天満宮>四足天神![]() 【 慶長12年 家康在城当時駿府絵図 】
図面は昭和63年に静岡天満宮が復刻した絵図の一部である。
四足御門は諸大名が家康謁見のとき城内に入る門であり、この周辺は当時の東海道のメインストリートである。四足御門の町名(四ツ足町)も記され、静岡天満宮も当時は「四足天神」と称されてもいたのである。
絵図の中で赤色の部分は社・寺を示している。 4.<静岡天満宮摂社>景行社 (かげつらしゃ)
道真公が無実の罪で九州太宰府に流された昌泰4年(901)1月25日の翌々日の1月27日、道真公の子供達は位を下げてそれぞれ別々の地に流された。長男の高視公は土佐の国(高知県)へ、三男の兼茂公は飛騨の国(岐阜県)へ、四男の淳茂公は播磨の国(兵庫県)へ、そして次男の景行公は駿河権介と格下げされて、駿河の国に流された。 ![]() 【 景行社 】 |